愛と感謝、思いやりと健康が一番!
癌、膠原病、慢性疾患、精神疾患、をまったく害のない方法で癒して、人生に夢と希望をもっていただきたい。
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【心臓が心臓である理由】
【心臓が心臓である理由】

肝臓、腎臓、脾臓、膵臓、肺には
「月」という字、にくづきが入っています。

でも、心臓は、心という字が
使われていて、「月」が入っていません。

心臓は月の作用を受けない特別な臓器なのか?

…というわけで、このたび、
りっしんべん について調べてみました。

慣 情 性 憶 悟
快 忙 惨 憧 慎
憾 怯 恒 慌 恨
惜 憎 惰 悔 怪
悼 悩 怖 憤 懐
慢 愉 惧 憬 慨
慄 惟 恢 恰 惚
悌 惇 怜 憐 悦

りっしんべんは、心という字を立てて、
偏(へん)にしたものです。

漢字では、立心偏と、ほんとに書くそうです。

心は、
心臓をまねてできた漢字
だと言いますから、

もしそうだと仮定するなら、

各漢字は、心臓のある状態を
表していることになります。

少し考察してみましょう。

慣(なれる)…立心偏に貫(つらぬく)
…一定のリズムが心臓に根付くこと。

情(なさけ)…立心偏に青(あおい)
…感情的なのはまだまだ青い(若い)ということ。

性(さが)…立心偏に生きる、生まれる
…心臓が動いて生きることとは、性別を生きること。

憶(おく)…立心偏に意識、意志、意図
 無意識に打つ心臓の鼓動が、
 意識的・意図的であると、
 記憶・追憶、憶えていることにつながる。

悟(さとる)…立心偏に吾(われ)
…鼓動が自分であると見出すこと。

快(ここちよい)…立心偏に夬(切断する)
…決断の決にも使われているように、スッキリさせること。

忙(いそがしい)…立心偏に亡くなる
…心臓が自分のリズムを見失うこと。

惨(みじめ)…立心偏に参る(まいる)
 みじめとは、見じ目=見ていられない
 が語源で、なぜ「参る」が当てられたか不明。

 心臓は、自分の居場所だけに、
 あちらの世界へ参ってはみじめ、ということでしょうか。

憧(あこがれる)…立心偏に童(わらべ)
…子供の時のようにドキドキすること。

慎(つつしむ)…立心偏に真(まこと)
…心臓が真実に出逢うと謙虚になる。
   

以上、あれこれ考察を試みましたが、
総じてみるに、

心臓は、
自ら鼓動というリズムを打つ臓器で、

遠いところにある月のリズムよりも、
目の前にある出来事に、より大きな
影響を受ける臓器だということなのかもしれません。

1日10万回近くも打つ
といわれる心臓の鼓動。

状況に左右されながら、ころころ転がる
ということからココロと名付けられた
という説があるくらいなのです。

目の前のことにたやすく転がされずに、
安定した鼓動が打てたなら、

それは安心を生むのです。





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いつの時も一度きり
10代も1度きり

20代も1度きり

30代も1度きり

40代も1度きり

いつの時も一度きり

たくさん泣いて

たくさん悩んで

たくさん後悔して

たくさん転んで

たくさん傷ついて

たくさん学んで

たくさん感謝して

たくさん笑って笑って

1度きりの人生 自分らしくあれ



【下腹がぽっこりするワケ】
【下腹がぽっこりするワケ】

便秘がちだったり、食べすぎたりすると
お腹の下の方にぽっこり現れる脂肪。
この「下腹ぽっこり」にもココロの
作用というのはあるのでしょうか?

脂肪というのは、実は熱の放出を
防いだり、組織が傷つかないよう
カラダを「守る」ために働いてくれているのです。

下腹には、大腸や膀胱のほか、
子宮や卵巣といったとても大切な器官が
ありますから、それらを守ろうとして、
その周囲に脂肪がつくのです。

特に冷えがあると、カラダは熱を
逃がさないように、いわば
「脂肪による毛布」をつくり出します。

むやみに脂肪がつくわけではないのです。

下腹にある脂肪も「毛布か〜」と思えば
憎らしさも少し和らぐかもしれませんね。

  

それだけではなく、「下腹ぽっこり」
には、もうひとつ大きな原因があります。

それは、呼吸の仕方です。

少し解説していきましょう。

食べ物が胃腸に入ってきたとき、
その重みで胃や腸は下がります。
その重みによって下腹がぽっこりと
押し出されてしまうわけですね。

でも、いくら重くなるからと言っても、
腸がだら〜んと下がってしまうことはありません。

それは腸をはじめ、腹部全体を
「腹膜」という膜が支えてくれているからです。

つまり、この腹膜の力が強ければ、
「下腹ぽっこり」を食い止めることができるのです。

皆さんは、「腹式呼吸」をご存じでしょうか?

腹膜の力をつけるには、この腹式呼吸に
よる深〜い呼吸が1番効果的です。

ふだんわたしたちは、お腹の力を
あまり使わず、主に肺と胸郭だけを
使って呼吸をしています。

また、日頃から時間に余裕がなく、
焦ってばかりいると、ストレスで
どんどん呼吸が浅くなり、腹膜の力が
落ちてしまいます。

つまり、「早くしないと!」という
焦りのココロが、「下腹ぽっこり」を
助長してしまうのです。

深い呼吸をすると、焦ったココロも
だんだん落ち着いてきますよ。

  
焦ったときや、急がないといけない
ようなときこそ、目をつぶって大きく
息を吐き出してみてください。

そのときにお腹がへこんでいくのを意識します。

すべて吐き出したら、今度は息を
吸いながらお腹がふくらむのを意識します。

お腹の力を使って深い呼吸をするのが
「腹式呼吸」です。

ふだんから意識的に腹式呼吸を
取り入れていると、やがて腹膜の力が
つき、「下腹ぽっこり」を防ぐことが
できるようになります。










ありがとう日記をつけるといい。
ありがとう日記をつけるといい。

毎晩、あなたが感謝したことを5つ、

リストアップするの。

そうすれば、

毎日に対する、

そして人生に対する、

あなたの見方が変わり始める。



【ジョンレノンは神道に惹かれていた】
【ジョンレノンは神道に惹かれていた】

ジョン・レノンといえば、誰でも永遠の名曲「イマジン」を連想するでしょう。

1971年に発表されたこの歌には、「天国なんてありゃしないと、想像してごらん。

地獄もありゃしない」「そして、宗教もない。

そうしたら、みんな平和に生きられるってさ」というメッセージ性の強い歌詞が登場します。

著者は、「イマジン」について次のように述べています。

「『イマジン』は世界の若者のあいだで、大ヒットした。ところが、アメリカや、ヨーロッパのキリスト教保守派層から、神を否定して、冒瀆する歌だとして、強く反撥された。

日本人は宗教に対しておおらかで寛容だが、キリスト教徒のなかには、病的としか思えない、癇性な人が珍しくない。

私は『イマジン』は、神道の世界を歌っているにちがいないと、思った。

そして、そうジョンにいった。

私はジョンに、神道には、空のどこか高いところに天国があって、大地の深い底のほうに地獄があるという、突飛な発想がないし、私たちにとっては、山や、森や、川や、海という現世のすべてが天国であって、人もその一部だから、自然は崇めるものであって、自然を汚したり壊してはならないのだと、説明した」

その後、ジョンとヨーコは靖国神社、さらに足を延ばして、伊勢神宮を参拝しました。

ヨーコがジョンを説いて、連れていったのだそうです。

ジョンは日本を愛していました。

そして、日本語を毎日、勉強していたそうです。

日本語の中で一番好きな言葉は、「おかげさまで」でした。

著者は、次のように述べています。

「ジョンは口癖のように、『okagesamade(オカゲサマデ)』という言葉が、『世界のなかで、もっとも美しい』と、いっていた。

日本では、人が自分1人の力によらずに、神仏や、祖先や、自然や、あらゆる人々である世間のお蔭を蒙って生きていると、考えられた。

ついこのあいだまで、日本では世間体が人にとって、何よりも大事だった。

日本人にとって世間というと、天と同じような存在だった。

世間をまるで神であるように畏れて、敬ったのだった。

ユダヤ・キリスト・イスラム教のように、神が人のうえに存在することを想定するのではなく、社会が天だった。

私はジョンに、日本では同じ人である隣人たちを神としているといった。

ジョンは目を輝かせて、聞いてくれた。

世間体は、『世間態』とも書いた。

世間体は世間に対する面目で、世間の人々に対する体面であり、社会の規範に合わせて生きることが期待された。

そのように努めることによって、自分をよいものに見せようと努めた。

日本ではこのように人間関係が、徳目を支えていた。

もし、社会規範に背くことがあったら、『世間体が悪い』といって、自分だけではなく、一族ぐるみで恥じた。

『世間を狭くする』とか、『肩身が狭い』というと、世間の信頼を失うことを意味したから、そうなったら、胸を張って生きることができなかった。

このような規範が、人々の背筋が通った生きざまをつくっていた。

世間を神様のように、『世間様』といって崇めた。

いまでも、そう意識することなく、『世間様』という言葉がごく普通に使われている」

わたしも、著者のいう「世間様」という発想は非常に重要だと思っています。

「ご先祖様」、「ご近所様」、そして「世間様」という視点がなくなってから、日本人のモラルは低下しました。

つまり、共同体というものが弱体化してしまったのです。

著者も、次のように述べています。

「いまの日本では、共同体の意識が弱まってしまったために、人間関係が駆け引きであるとみられるようになって、世間体という言葉がなくなった。

社会が神でなくなってしまった。

まだ、半世紀にならないというのに、日本は何と大きく変わったことだろうか。

そういえば、『個人』『個性』という言葉も、明治以前には、日本語になかった」

さらに、著者は「世間」を敬う心こそが日本人の特色だとして、次のように述べます。

「私たちは、神や仏だけでなく、親や、上司や、特定の人々による引き立てだけでなく、世間のお蔭をこうむって、生きているのだ。

だから、日本人はあたかも神のように、世間を畏れて敬った。

いまでも、改まった席では、若者まで含めて、『・・・・・・紹介させていただきます』とか、『参加させていただきました』『つくらせていただきました』『過ごさせていただきました』と、『・・・・・・させていただきます』を連発する。

これは、外国語にはない表現である。

自分の力だけではなく、そのように世間に『させていただいた』ことに、胸のなかで感謝しているのだ。

世間を天としている文化は、日本だけである」

『ジョンレノンはなぜ神道に惹かれていたのか』より





人生の目的は生きることである。
人生の目的は生きることである。

生きているときにしかできない。

大きく生きる勇気を持とう。

人生は練習ではない。

本番だ!

待ったなしだ!





死とは、重いテーマです。
 死とは、重いテーマです。

 あるいは、少なくとも、重くて暗くて忌むべきテーマだと、私たちの多くは信じ込んでいます。
 

 社会の常識を代表するテレビ番組が映し出す死は、例外なく暗くて灰色のトーンで描かれます。

そこでニコニコすることなど決して許されないという空気感、死はやはり悲劇以外の何ものでもないと、すでに最初の最初から決めてかかっている。

まるで、それ以外のありようなどないかのような圧倒的な印象で。

 けれども、これが死の真実の姿なのだろうか、これが生きるということなのか?
 自分自身の死について見つめれば見つめるほど、こうした問いは切実なものになっていくのではないでしょうか。

 それで思い出すのが、日本映画の巨匠黒澤明の晩年の作品「夢」です。

名監督として名を馳せた彼が、自分の伝えたいメッセージを思いのままに描いたこの映画は、全編がまさに夢のワンシーンのような短編で織り成され、その物語はすべて、人類の行く末に警鐘を鳴らすような鋭い視線に貫かれているのですが、その最後の物語のテーマがお葬式でした。

生を生き切って亡くなった女性を送る葬儀は、まるでお祭りかと見まがうような陽気なもの。

人々はカラフルな衣装をまとい、鳴り物入りで練り歩き、にぎやかに、死者の旅立ちを祝うのです。
 

 この映画を見たのはずいぶん昔のことですが、人生を締めくくるにふさわしい、喜びに満ちた美しいシーンがとても感動的でした。

 インドのOSHOの瞑想センターでは、彼の存命中はもとより、今でも近しい弟子が亡くなるたびに、この映画に描かれたようなお祝い、「デス・セレブレーション」が行われます。

私も初めてインドに渡って間もないころ、訳も分からないままにその場に居合わせたことがありました。

日本のお葬式からは考えられないアップテンポでビートのきいた音楽に乗って、激しいダンスとともに、亡骸が近くの川べりの火葬場へと運ばれたあと、弟子たちみずからの手で薪が積まれ、火がかけられる。

炎に包まれていく身体を静かに見守るのは、じつに強烈な体験でした。

喜びと悲しみが交錯する瞬間、みずからのいのちを見つめ直す、かけがえのない瞑想の機会……そしてOSHO自身もまた、たくさんの弟子たちに祝われ、感謝と喜びの涙とともにこうして見送られたのです。
 
 OSHOは、死とは生のクライマックスだ、究極のオーガズムなのだと語っています。
 

 この言葉が指し示すヴィジョンの一瞥とともに、生き方そのものが丸ごと変わってしまう――本書は、そんな大きな潜在性を秘めた一冊です。

 これは、弟子を目の前に、朝に夕にOSHOが語った膨大な講話から、テーマに添った内容を集めて編まれた編集本です。実際に死に直面している人たち、その家族や友人たちの切実な問いに、妥協なしに真実を語りかけている内容であること、それこそが本書のすばらしさです。

ここで語られているメッセージは、じつにストレートです。死が差し迫っているときには、もはや無駄な時間はない。

何かがなされなくてはならない。

その切迫感こそ、真に大切なこと、自分自身の真実に目覚めるための、大きな原動力になりうるのです。

 ですからこの本は、あなたにとって、かつてなかったような魂のための実用書になるかもしれません。

最初から順序立てて読む必要はありません。

あなた自身の人生の切実な問いを頼りに、どこからでも、そして自分なりのペースで読み進めてもらえばいい。

 そして興味が湧けば、どうぞご自分で瞑想法を試してみてください。





幸せを見つければ 「いま」 幸せになることができる
人から認められたら
幸せと思っていたら
   
人から認められなくなったら
幸せを感じられなくなる
   
収入が増えたら
幸せと思っていたら
   
収入が減ったら、
幸せを感じられなくなる
   
特別 刺激的な経験をしたから
幸せと思っていたら、
   
その刺激的な経験がなくなったら
幸せを感じられなくなる。
   
相手が変わってくれたら
幸せと思っているなら、
   
相手が変わらないうちは
幸せを感じられない
   
物事が思い通りにいかないと
幸せではないなら
   
物事が思い通りにいかないうちは
幸せを感じられない
      
それらは
すべて条件付きの幸せ
   
環境や相手任せの幸せは、
早々やってこないし、
やってきても、いずれ壊れる。
   
離婚しても 幸せな人がいる
結婚しても 不満ばかりの人がいて
   
収入が少なくても、幸せな人がいる
収入が多くても、不幸な人がいるように
   
本来 幸せに基準はなくて
幸せは自分の「思い込み」にすぎない
  
つまり
自分が「幸せだな」
と思えば 幸せになる
  
いつか 幸せになるのではなく
いまここで感じられる
 
幸せを見つければ
「いま」
幸せになることができる





「自己一致」
誰かに愛されたかった自分が
誰かに愛されていたのだとしたら
  
何かに満たされたかった自分が
何かに満たされていたのだとしたら
  
自分には「ない」と思ってきたことが
自分には「ある」のだとしたら…?
  
「過去のせい」をやめたとき 運命が変わり、
「誰かのせい」をやめて
「今を生きる」とき 全てが好転し始める
  
過去の行動を悔やんだり、または
将来の心配ばかりするのではなく、
今に思いを定めること。
   
目の前のすべての人、もの、
状況に対して感謝し、
心をこめるということ。
 
今、この一瞬に心をこめずに、
いつ、誰に対して 
心を込めることができるのだろう?
   
今 生きているあなたが本物。
  
「もっとすごい自分がいるはず」
と自分探しをするよりも、
  
まず 目の前のことに対して
心を込めて
取り組んでいくことが「自己一致」。





「幸福の定義」
「幸福の定義」

このところ、凹む事が多い。

歯車が狂っているのはわかっているが、その原因を作り出しているのは紛れもなく自分であるし、解決する策を持っているのも自分であることは知っている。

人生なんて幸せな瞬間など僅かしかない。

一日の時間で言えば、多くの時間は、辛いか、苦しいか、悲しい時間を過ごす。

一生で言うなら、苦しく、努力し、あるいはどん底かと思う日々の方が多い。

それが何故だか、知っているだろうか。

この地球上の幸福の時間というのには限りがあるからだ。

一人一人に与えられる幸福の時間というのは決められている。

それは等しく皆、平等に分け与えられる。

どんな生き方をしようが、どんな行動を取ろうが、どんな宗教を信じようが関係ない。

その幸福の時間を独占しようと企む人たちがいる。

そのために支配しようとし、世界中をかき回す。

だが、そうする人たちにも、皆と等しい幸福しか訪れない。

幸福というのは物質や支配からは生まれないからだ。

幸福を生み出すのは人と人との繋がりであり、信頼や思慕からである。

誰かを支配しようとする者は、信頼や思慕を手にすることはできず、他人以上の幸福は訪れない。

平等に訪れた幸福の感じ方が、人によって違うことはある。

日々苦しみ、努力し、希望を待ち続ける者は、訪れた幸福を誰よりも深く感じることができる。

同じ幸福でも、長く感じることができるのだ。

貪欲な者には、幸福は一瞬の出来事にしか感じない。

どの時点が幸福なのかの判断がつかないからだろう。

一見、自分よりも幸福そうに思える人がいても、幸福の時間は絶対に変わらない。

辛くても、苦しくてもいい。

人には必ず平等に幸福が訪れる。

いつか必ず訪れる。

どんな種であっても、いつか芽吹くように、人には必ず幸福が訪れる。

ただひたすら、その瞬間を信じて今を過ごせばいい。

それが幸福の定義だと、僕は思う。

いつかきっと。

幸福は訪れる。

しかも平等に。





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