愛と感謝、思いやりと健康が一番!
癌、膠原病、慢性疾患、精神疾患、をまったく害のない方法で癒して、人生に夢と希望をもっていただきたい。
明るい意識が 幸せなエネルギーを作ります。
明るい意識が
幸せなエネルギーを作ります。

幸せや健康はどこかから
やってくるものではありません。
健康も幸せも
追いかけて得られる
ものではありません。

自分で作るものです。
創造していくのです。
明るい心の中に
健康と幸せがあります。
その心を回復するのが瞑想です。





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【限界】
【限界】

生まれた時からこの世には「限界」など無い!と、
教えられてきたら、
華々しい人生となることは間違いなしです。

しかし、躾や教育として、禁止語、否定語を受けた結果、
物事を始める時、「否定的」な場面からスタートしてしまいます。

「私にできるかなぁ(自己否定)」
「私には荷が重すぎるかも(自己否定)」
「失敗したらどうしよう(自己否定・自己嫌悪)」などなど。


でも、
「これは絶対できる」
「私には十分こなす能力がある」
「絶対成功する」と

「肯定的」な思い込でスタートすると、結果は最初の思い込み通りになるのです。

成功者は、その途中に起きる「困難」は予想していませんが
「成功」して喜んでいる姿を最初からイメージしているのです。

困難を予想することは「限界=自己否定」を生み出すことなのです。

自分が実現のイメージがつくことで、越えられない困難など最初から存在しないのです。

逆に言うと人間は越えられない困難があることを「してみよう」とは思わないのです。

ゴールが決まると、どんなハードルも飛び越えて行けるものです。

「大変そうね」って傍目に見えても、本人はそれを逆に楽しく感じているのです。

なぜなら、ゴールして喜ぶ姿しかイメージしてないからです。





4大エネルギー矛盾
現代科学は、学説上、「4大エネルギー矛盾」に直面している。
 
「4大エネルギー矛盾」とは、 第一が筋収縮、 第二が酵素作用、 第三が触媒作用、 第四が常温核融合。
 
しかし、それに関わるエネルギーの実体が解明できていない。
 
1、筋収縮運動エネルギー
筋収縮の際には力学的運動エネルギーが必要になる。 それはATP(アデノシン三燐酸)が分解して与えられる。
しかし、それだけでは全体の1割そか速度的にはまかなわれない。 残りの9割は外部からのエネルギーが供給されねばならず、その解明には何らかの量子論的な法則が必要になる。
しかし、どのような量子エネルギーが関わるのかは明らかにできていない。
 
2、酵素作用エネルギー
酵素があれば、生体外なら高温高圧でないと起こらない分子レベルの化学反応が生体内なら常温常圧で起こる。
卵の白身を実験室で消化させるには、試験管に触媒(塩酸)を加え、加圧して110℃の高温にしないとならない。 ところが、体内では胃の中のトリプシンという酵素の働きにより常温常圧で消化できるとある。
このような酵素作用の実体は蛋白質と生命エネルギーだと指摘されている。
しかし、その生命エネルギーの正体は明らかにできていない。
 
3、触媒作用エネルギー
従来科学では、それ自身は変わらないが、化学反応速度を速くしたり、遅くしたりできる元素や化合物のことを触媒と定義してきた。
触媒を用いると反応速度があがる場合、反応系の活性化エネルギーを下げる向きに、触媒からエネルギーがなんらかの形で供給されていることになる。
しかし、そのエネルギーの実体は明らかにできていない。
 
4、常温核融合エネルギー
1989年、フライシュマンとポンズは常温(電解)核融合現象を発見した。
陰電極にパラジウム、陽電極に白金を用い、重水を仕込んで電気分解を行ったところ、大量の熱が発生し、同時にトリチウム、ガンマ線が発生した。 現象説明にはコンテの理論(陽子と電子の強い相互作用)が有力視されているらしい。
しかし、それに必要な高エネルギーがどのような機構で供給されているのかは、明らかにできていない。
 
 
■「4大エネルギー矛盾」は”酵素・触媒作用”に帰着される
第一矛盾にいう筋収縮の際のATPの分解にはATP分解酵素が関わっているので第一矛盾は第二矛盾の酵素問題に還元できる。
また、第四矛盾にいう常温核融合で電極に使用されているパラジウム、白金は触媒活性の高い金属元素として知れれている。 それ故、第四矛盾は第三矛盾の触媒問題に還元できる。
 
それに、いずれの現象場にも水(H2O)が共通に介在している。
 
第一矛盾(筋収縮)では体内水、 第二矛盾(酵素作用)でも体内水(生体外では親水性酵素の方が分解反応速度は速い)、 第三矛盾(触媒作用)では溶媒水、 第四矛盾(常温核融合)では電解対象物そのものが重水あるいは軽水などいずれも水が関わっていることがわかる。
 
従って、現代科学の4大エネルギー矛盾は常温常圧で原子・分子転換を起こす酵素・触媒作用に帰着でき、水が共通場となっている。
 
 
【光の三原色】
 
光(透明光) = 青 → H(水素)
         赤 → O(酸素)
         黄 → Si(珪素)
 
光は粒子と波動性から成るとされているので、粒子が動くことで波を形成すると考えらている。
光の性質を考えると、粒子はSi(珪素)と考えられ、その珪素によって波が生まれると考えられる。
つまり元々珪素がH,Oの中にあると考え、万物、珪素を通して、出たり、入ったりすると考えられる。
今まで水を主役と考えていたのが、実は珪素が主役で水(H、O)は脇役。
 
光の性質から考えて、珪素(粒子)の中にH,Oがはいる、H,Oの中に珪素があるのではなく、珪素の中にH,Oが入っていると考えると、ジェルあるいはゲルというシリコン状態となり存在し水分子の形、つまり、ピタゴラスの三角形及び黄金分割比の源をなす粒子と考えられます。
 
珪素化合物を含むプリズムが光を分光できるのもこのためです。
 
(*脳内パラダイム革命発 量子水巡り珪素光へ「宇宙生命三都物語」 高尾征治(九州大学 工学博士)著  より~ 引用)





人々は変化を 心底から恐れ、 変化に対して 大きな恐怖を抱いている。
人々は変化を心底から恐れ、変化に対して大きな恐怖を抱いている。

ものごとがよい方向に変わってゆくときでさえ、恐れる。

彼らは新しいものを恐れる。

マインドというものは古いものには実に賢く振る舞えても、新しいものに出会うと必ず当惑するからだ。

マインドは新しいものを再びイロハから習わなければならない――誰が習いたがるだろう?

マインドは世界をそのまま停止させておきたい。

社会が法を遵守し、古い型を守るのはまさにこのマインドがあるためだ。

世界中で数限りない人々が因襲にとらわれている。

なぜだろう?そこにはかなりの資本が投下されているにちがいない。

これは投資だ――
誰も学びたくはないし、誰も成長したくはないし、誰も新しいものに慣れ親しみたくはない。

人々はどこまでも古い型を守りつづけようとする。

が、そうなると当然、退屈してくる。

そこで彼らは「どうして退屈なんだろう?どうすれば退屈せずにすむだろう?」と言う。

彼らは自分たちで退屈をつくりだしておきながら、退屈をつくりだしたそのからくりを見ていない。

大勢の人が私のもとにやって来て、自分は退屈していると言う。

「どうすれば退屈から抜け出せるでしょう?」と。

退屈が問題なのではない。

退屈は副産物だ。

問題の奥にあるのは、新しいものを探求する用意ができているか?

冒険に出る用意ができているか?
ということだ。

冒険とは賭けることだ。

それはよくなるかもしれないし、これまで知っていたよりもさらに悪くなるかもしれない――

それは誰にもわからない。

それに関してはひとつも確実なことは言えない。

生で唯一確かなのは、それが不確かなものであるということだけだ。

人は不確かさより他には何も当てにすることができない。

新しいものは人をひどく不安にさせる。

彼らは古いものにしがみつく。

世界に因襲にとらわれた人々がいるのはそのためだ――
彼らは無用な重荷になっている。

彼らのおかげで世界はよどんでいる――
彼らは古い型を踏襲することにこだわりつづけている。

例えば、
インドの歴史はほぼ五千年に達するが、マヌがつくりあげた社会構造はそのまま残っている。

それは当時は良いものだったかもしれないし、何らかの意義があったにちがいないが、
五千年が経ったというのにインドにはいまだに不可触賎民がいる。

触れることすら許されない人々がいる。

彼らは人間ではない。

正統派を自認する者たちは彼らの影にさえ触れない。

かつてはそうだった。

今でもいくつかの村では、不可触賎民、スードラが通りを歩くときには
「どうかわきによけてください。そちらに行きますよ」と叫ばなければならない――
というのも、カーストの高い誰かに影が触れると罪になってしまうからだ。

彼は叩かれ、へたをすると打ち殺される!
今でもこの罪を着せられ焼き殺される人々がいるが、この愚劣な社会構造は五千年も生き延びてきた。

これほど非人間的なのに!
これほど非民主主義的なのに!

インドでは民主主義が成功しそうにないのはこのためだ。

ヒンドゥー教の精神そのものが民主的ではない。

精神構造のすべて、心理的な条件づけが民主主義に反しているのに、どうして民主的な国をうまくつくりあげることができるだろう。

民主主義において最も大切な基本は、万人が平等であるということだ。

誰かが誰かよりも価値においてまさるというわけではない――
ところがヒンドゥー教徒はそれを受け容れることができない。

事実、スードラ、不可触賎民は人間として認められていない。彼は人間ではなく、家畜扱いをされている。

女を人間と見なすことはできない。

女性もまた家畜扱いをされてきた。

さあ、この種の精神――それがどうして民主的になりえよう。

だから民主主義の名のもとにあるのは混沌以外の何ものでもない。

なぜなら、民主主義の基盤が存在していないからだ。

だが、この国は五千年にわたりこの社会構造とともに存続してきて、それを手放す用意ができていない。

この構造のどこに美点があるのだろう?
美点などどこにもありはしない。
それはただただ醜く、おぞましく、忌まわしく、吐き気をもよおすほどだ!

人々はあまりにも長くそれと暮らしてきたので、もう他のことは何も学びたくない――ただそれだけのことだ。

彼らはそれとともに生きてゆきたい。

彼らはそれがあると安心することができる。

彼らはどんな変化も毛嫌いしている。

いいかね、
この傾向は多かれ少なかれどんな人間のなかにもある。

あなたは変わりたくはない。
あなたは変化を恐れている。

なぜなら、変化とともに新たな挑戦が生まれるからだ。

そしてあなたは新しい状況に対処できるかどうか不安に思っている。
古いものならうまく扱えるし、手際よくさばけるから、古いものに寄り添っているほうがましだ。
古いものは意のままに操ることができる。

新しいものはどうなるかわからない。

思い通りになるかもしれないし、思い通りにはならないかもしれない。

学ぶことができるのは子どもたちだけだ。
子どもたちには何も過去がないので、しがみつくべき古いものがいっさいないので、いつでも喜々として学ぶことができる。

大きくなればなるほど学ぶことができなくなる。
13歳位で、人々は学ぶことをやめる。
それが彼らの精神年齢になる。

探求者であるなら、あなたは絶えず学びつづけなければならない。
生きることは学ぶことだ。
学ぶことはけっして終わらない。

死の瞬間においてすら、探求者は学びつづける。
彼は死を学ぶ。

彼はいつでも変わる用意ができている。

水は変化する要素を、永遠の変化を、流動的な現象を表している。

いつでも変化でき、過去を忘れ、過去を許すことができ、瞬間とともに進んでゆく用意のある者たちこそが真の人間だ。

なぜなら、彼らは冒険家だからだ。

彼らは生の美を、生の祝福を知っている。

そして生はその神秘をこのような人々に、このような人々にだけ明かしてくれる――
なぜなら、彼らはそれに値するからだ、みずからの手でそれを稼ぎ取ったからだ。

賭けることで、彼らはそれを稼ぎ取った。
彼らには勇気がある。





因縁因果応報
心が行為を作り、

行為が運命を作ります。



これは、一つの心の癖が、

行為の癖へ繋がり、

それを積み重ねることで、

運命が方向づけられ

動きだすということです。



これを因縁といいます。



この因縁の中で、

あなたが撒いた種は、

運命の因子となり、

自分で刈り取る時期が

やってきます。



そして、それを食べたくなくても、

運命から無理矢理に口の中に

押し込まれ、嫌が応でも

飲み込まなければならないのです。



あなたがやった事は、

良い事も悪い事も、

どんなに泣き叫ぼうが、

結果として返って来る。



あなたが原因をつくり

あなたがその報いを受ける。



病気になるのは

不摂生や心遣いから。



家族が不和なのは

互いの思いや言葉が足りないから。



収入が少ないのは

計画性と努力がないから。



これが因果応報の道理ですよね。


実は私も自分で書きながら

自分に言い聞かせているのですけどねぇ。




自分の癖に負けないで、

できるだけ理想の人生を、

できるだけ真実の人生を、

生きてゆけるといいですね。



心が変わり、

言葉が変わり、

行いが変わり、

自らを改めれば、

新しい業が始まり

新しい因縁が動き出す。



これを転識といいます

転識できれば新しい運命が訪れ

良い因縁が廻りだし、

新しいあなた自身に変われるのです。


私もあなたもお互い良き人生を歩みたいですねぇ。





相手の心に届かないような気がする。
自分の情熱「を」語るのではなく

自分の情熱「で」語らなければ

相手の心に届かないような気がする。

愛「を」語るのではなく

愛「で」語らなければ

相手の心に響かないような気がする。

大事なのは

何を話すかよりも、

誰が話すか…。

もっと言うと

どういう状態(being)で話すか。

言葉にとって一番重要なのは、

言葉の指し示す【意味(定義)】よりも、

言葉の裏にある【気持ち(動機)】。

言葉そのものには 何も力はない。

言葉に込める気持ちに 本当の価値がある

              ( しみず たいき  さん)より





喜びの大きさは悲しみの深さとどこかで繋がっている
喜びの大きさは 

悲しみの深さと

どこかで繋がっている

癒しの大きさは

痛みの大きさと

どこかで繋がっている

愛の深さは

傷の深さと

どこかで繋がっている

絆の硬さは

孤独の長さと

どこかで繋がっている

希望の光は

絶望の闇と

どこかで繋がっている

あなたの物語は

わたしの物語と

この広い空の下で繋がっている。

将来、あなたの弱さを

受け入れてくれる人が現れるだろう。

その人は あなたの強みになるために

あなたの人生に現れるのです。

将来、あなたの闇を

照らしてくれる人が現れるだろう。

その人は あなたの光になるために

未来から やって来るのです。




( しみず たいき  さん)より
死は最大の神秘だ。

生における最大の神秘は生そのものではなくて、死だ。

死は生の絶頂であり、生の究極の開花だ。

死において、生のすべての総計が出され、死においてあなたは到着する。

生は死に向かう巡礼の旅だ。

生まれ落ちたその日から、死が近づきはじめている。

誕生の瞬間から、死はあなたのもとに近づきはじめ、あなたは死に向かって進んでゆく。

人間のマインドに起こった最大の悲劇は、彼が死に対立するようになったことだ。

死に対立することで、あなたは最大の神秘を取り逃がしてしまう。

死に対立することはまた生そのものを取り逃がすことでもある。

なぜなら、それらは互いに深くかかわりあっているからだ。

それらは別々のものではない。

生は成長であり、死はその開花だ。

旅と目的地は別々のものではない。

旅は目的地において完結する。

死は高まりゆくものの頂点として受けとめられなければならない。

それによって異なった視野が開けてくる。

あなたは死を避けないようになり、死に対立しなくなる。

その神秘に身震いし、それを楽しむようになり、それについて黙想し、瞑想するようになる。

死はさまざまな形でやってくる。

あなたが死ぬことは、死の多くの形のひとつにすぎない。

あなたの母親が死ぬとき、それはあなたの死でもある。

母親はあなたに深くかかわり、あなたの存在の大きな部分を占めていたからだ。

その母親が死ぬ。

あなたのなかのその部分も死ぬ。

あなたの父親、兄弟、姉妹、友人が死ぬ。

敵が死んだときですら、あなたのなかの何かが死んでしまう。

なぜなら、敵もあなたの一部と化していたからだ。

あなたは何かを失って、何かが欠けてしまい、もはや二度と同じではない。

だから、死はあなたが死ぬときだけに訪れるのでわない。

死は多くの道を通ってやってくる。

死は常にやってきている。

子どもの幼さが消えて、青年になるとき、あなたには見えないだろうか?そこに死が起こる。

子どもの日々が終わり、子供の日々が死んで、その扉が閉ざされる。

後戻りすることはできないし、取り戻すこともできない。

それは永久に去ってしまう。

子どもとしてのあなたは死んだ。

いつの日か青春は老年へと移り変わる。

またそこでも死が起こる。

数えきれないほどの死がある。

実際のところ、深く、貫くように見るなら、自分が刻一刻と死んでゆくのを見ることができる。

なぜなら、あなたは刻々と変化しているからだ。

何かがあなたの存在から抜け落ちてゆき、何かがあなたの存在の中に入ってくる。

一瞬一瞬が誕生と死だ。

あなたはこの二つの堤、誕生と死のあいだを流れている。

あなたの生の川は誕生と死があってはじめて流れることができる。

しかもそれは刻々と起こっている。

死はきわめて静かに起こる。

その足音を聞くことはできないし、それはどんな音もたてない。

それは起こり続けている。

あまりにも絶え間なく起こるので、あなたはそれを見ようとしない。

明白すぎるからだ。

明白なものは忘れられ、生の一部になってしまう。

あなたは突然起こることにしか注意を払わない。

不意のものごとにしか注意を払わない。

そして死は絶え間ない。

だからあなたはそれにいかなる注意も払わない。

・・・

どこかで誰かが死ぬと、死は必ずあなたの扉をもノックする。

人間だけではない。

犬が死に、カラスが死に、木の葉が色あせて木から落ちる。

あなたは死んでゆく。

なぜなら、私たちは互いと入り交じりあい、互いの一部となり、互いの一員となっているからだ。

人間は孤島ではない。

私たちはみなある種の結びつきのなかにある。

そして死は世界中で、刻一刻、無数の形で起こっている。

<存在>は死を通して生き、死を通して自らを更新する。

死は最大の神秘だ。

生よりさらに神秘的だ。

なぜなら、生は死へと向かう巡礼の旅にほかならないからだ。




人生にはどんなにあせっても、どの扉も開かない時期がある。  
人生にはどんなにあせっても、 
 
どの扉も開かない時期がある。  
 
 
 
泣いてもわめいても落ち込んでも、 
 
開かない時期には開きません。  
 
 
そんな時は、 
 
扉をたたくのはやめて、 
 
心の畑を耕し、 
 
知性や技術の食糧をためること。  
 
 
自分が充実した暁に、 
 
自然と扉は開きます。 





マラリヤをやって熱を出せれば梅毒も淋病も治ってしまうのです。

病気によって治ってゆく面が沢山にある。

マラリヤをやって熱を出せれば梅毒も淋病も治ってしまうのです。

一番安全に。

自分の体の力で治らなければ本当ではないのです。

そういう働きを皆薬や何かで閉じ込めてしまうから、他のいろいろな病気が増えていき、最近は精神病になるのがとても多くなってきている。

熱が出なければ一生背負う。

だけどそういうときにはちゃんと熱が出るように人間はできているのです。

それよりも可愛そうなのは子供が梅毒や何かをそのまま背負って生まれてくることです。

だから子供には高い熱の出る病気が沢山ある。

それをやると、そういう遺伝的に抱えている病気が無くなってしまうのです。

むしろ、そういう遺伝病を調整するために子供の病気はあんなに高い熱が出るのではないかと、そう思っているくらいです。

だから、高い熱が出るとホッとするのです。

それをせっせと冷やして熱が出たから心配だなどというのは、親の頭に氷嚢を乗せる方が本当なのです。

だから私はこう言います。

「氷嚢をあなたの頭に」と、子供は熱を出したらお湯で温める(39度くらいになったら、熱いお湯でタオルを絞って小さく折り畳んで後頭部に当てます)。

そうすると一度高くなりますがすぐ下がります。熱は必要なところまで上がれば自然に下がるものなのです。

そのように、病気を治すということの中に、次の病気を作るような予防や治療の仕方が沢山ある。

一番大事なことは、体の自然の快復だと思うのです。

自然というと、放っておくことだと思う人がいるのですが、一部分硬張っていれば自然ではないのです。

心の中にこだわりを作ったり「あの人が憎い!」なんて思って暮らしていたって、それは自然ではない。

人間の自然には本来そんな憎しみなどないのです。

そんなもの作りっぱなしで暮らしているのは自然ではない。

だから心も体も自然のまま保つようにするには鍛練する必要があると私は思うのです。

しかもその鍛練は活元運動によれば意識しないで自然に行われる。